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BASSDRUM設立趣意(2017年12月)

もともとこの文章は、清水の個人ブログのエントリとして掲載されたものですが、BASSDRUMの最初の設立趣意としてまとまっている文章でもあるので、改めてBASSDRUMのnoteに転載します。

コンテクストがわかりにくい部分、事情が変わってきた部分もある(これを書いた時点でPARTY NYがWhateverと一緒になるとか想定してなかった、とか)ので、原文から多少調整をしていますが、ご理解くださいませ。

あとは、仕事をしているうちに、この文章を書いた時点からそれなりに新しいものも見えてきているのですが、そのへんは原文のノリを保存すべく、そのままにしています。

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イントロダクション

そもそもこの文章は、本当は私の仕事のことをよく知らない方にも届く場所に掲載することになるので、内容をちゃんと理解してもらえるように、自分がやっている仕事についてまずきちんと説明すると良いのかな、なんて思って書き始めてみたのですが、イントロで8000字くらいになって、自分でも全然読む気がしないものになってしまったので、あきらめます。

したがって、この文章は、私の周辺の、私の仕事や業界についてある程度知識がある方に向けた説明・発表ということになるかと思います。専門用語や業界のコンテクストの説明などは、最低限にします(さもないと、「クリエイティブディレクターとは何か」とか深遠なテーマに切り込んでいくことになります)。

といいつつ、私が新しく始めようとしていることを説明するために、どういう経緯や体験があって、そんなことをやることにしたのか、それを語らなくてはなりません。すごく長いので、「こんなん読む時間ないよ!」という方は、下の方にある「新しいチームと文化をつくる」というところまで一気に飛んでそこだけお読みください。

私の仕事上でのポジショニングを非常にはしょって表現すると、「制作会社のプログラマー出身でクリエイティブエージェンシーのクリエイティブディレクターになった人」みたいになるかと思います。

昔この記事で書いたように、30になるちょっと前くらいに、デザイナーの道をあきらめて、イメージソースというデジタルの制作会社(ウェブサイトやらシステムやら、イベントの仕掛けやら何やらデジタルなもの全般をつくるような会社です)にどうにかこうにか就職しました。

その後どうなったかというと、制作の末端でコーディング(プログラミング)をしたり、チームをまとめるようなことをしているうちに、当時は広告をはじめとした商業クリエイティブの世界にはあんまりいなかった「テクニカルディレクター」という立ち位置で仕事をすることになりました。

テクニカルディレクターとはどんな仕事なのか

この話の中で、この「テクニカルディレクター」は重要な要素になるのでちゃんとここで説明します。横文字で言うとこういう長い名前になっちゃうんですが、要するに「技術監督」です。ただ、一言に「技術監督」と言ってもやることは多いです。長くなりますが理解してあげてください。

まず、テクニカルディレクターは、何かをつくる前の、アイデアづくりの段階から仕事をします
たとえば、最近だったら「ディープラーニングを使って、人の顔にスコアをつける」(これです)みたいな要件が出てきたとします。
そういうようなアイデアに対して、「最近はこういう技術があるからこうやればできます」とか「この技術はこういう問題があるので、ここまでが限界です」みたいなことを言って、技術的な意見を言います。
あるいは、「それはできないけど、こういうことならできます」みたいな代案を出したりします。

企画会議の段階でテクニカルディレクターが入っていると、そのへんの判断をしてくれたり、提案をしてくれたり、「どうすれば実現できるか」みたいなところの青写真をつくってくれるので、とても便利です。

企画が決まった。じゃあこれをつくろうか、という次の段階でもテクニカルディレクターは非常に便利です。テクニカルディレクターは、誰がそういう開発が得意か、みたいなことだったり、どの制作会社にどういう開発者がいるか、みたいなことからプログラマーのプログラミングの癖まで知っていたりするので、何かものをつくりたいときに、それに適した技術者を連れてくることができます。

私は昔からネットストーカーというか、接した人について偏執的に調べまくる傾向があって(その人のTwitterのタイムラインを5年分読む、とか)、そのおかげで取引先の女性が昔どこそこの沖縄料理屋でバイトをしていた、みたいな濃い情報まで把握して気持ち悪がられたりするんですが、この「技術者の傾向と志向を把握して案件に連れてくる」という仕事においてはこのネットストーキング能力が結構役立ちます。

その次にテクニカルディレクターがやるのは「翻訳」です。翻訳と言っても日本語を英語に翻訳するとかではありません。「企画屋さんの言葉」を「プログラマーの言葉」に翻訳するのです。
たとえば、広告代理店みたいなところで広告企画を考えている人間と、制作会社でプログラムを書いている人間だと、仕事における「萌えポイント」というものがそもそも全然違ったりします。

「自分の空想が実現して、多くの人に見て触ってもらえること」にやり甲斐を感じる人と、「チャレンジングな実装要件があって、それを動くようにする過程」に萌える人が一緒に働かなくてはならないときに、そんな二人が直接話しても、全然噛み合わなかったりします。
このへんの「企画者がやりたいこと」を「開発者が萌える仕様」に変換して目的とモチベーションを維持してものづくりを進めるのも、この「翻訳」の仕事です。

ディレクターが「ここはもっと『シュッ!』と動くようにして」みたいな指示を出してきたときに、「ここは0.4秒で30ピクセルくらいの距離をイーズアウトさせよう」みたいな感じに数値に変換して開発に伝える、みたいな文字通りの「翻訳」をするような場合もあります。

優秀なテクニカルディレクターをチームに入れておくと、そういう部分で無駄を減らして、みんなストレス無く仕事を進められる(ことが多い)のです。ひいては、制作・開発物のクオリティが上がります

そしてもう1つ。「テクノロジスト」とかだとちょっと違ってもっとコンサルティング寄りなのかもしれませんが、テクニカルディレクターというのは原則的にはプログラマーです(であるべきです。自分で触ってないと判断できないことが多いので、プログラムを書けないテクニカルディレクターというのは、ややアレです)。

なので、テクニカルディレクターは、プロジェクトが最後のギリギリになって、「間に合わない! けどできる人いない!」とか「ここまだできてない!」みたいな状況になったときに、自分を「予備プログラマー」としてアテにできます。
私自身も、締め切りギリギリでピンチに陥った開発に自分自身を代打として送り込む、みたいな状況を何度も経験しています。

総じて言うと、中規模以上のデジタルものづくり案件には必要不可欠な、便利な存在がテクニカルディレクターです。

PARTYをつくって、クリエイティブディレクターにクラスチェンジする

そんなわけで、会社に入ってしばらくして「テクニカルディレクター」として活動を始めたわけなのですが、当時私が働いていたインターネット広告とかそういう世界はまだまだ黎明期ちょっと後くらいで、ちょうどテクニカルディレクターが必要になるような規模の開発案件がたくさん出てきたくらいの時期でした。

そのタイミングとフィットして、「需要が高い」「けどあんまり存在しない」テクニカルディレクターとなった私は、多くの良いプロジェクトに恵まれました。
たまに講演とかで使う、「わかる人にはわかる昔の案件の画像を並べた画像」を置いてみますが、当時話題になった多くのインタラクティブ案件のテクニカルディレクションを担当させていただくことができ、幸いなことにテクニカルディレクターとして一定の評価を頂くことができたのです。 

で、その頃一緒にお仕事をさせて頂いていた素晴らしいクリエイティブディレクターの方々と一緒に、6年前に設立に参画したのが「クリエイティブ・ラボ」と銘打った、クリエイティブ専門の代理店(?というと怒られるかもしれませんが)「PARTY」でした。
この参画の段階で、私はテクニカルディレクターを卒業し、新たに「クリエイティブディレクター」に就任しました。クリエイティブディレクターというのは要するに「クリエイティブ総責任者」。こういうものづくりのヒエラルキーの中では一番えらい人、というか責任を負う人、ということになります。

これはまあ、出世です。
制作会社のプログラマーというのは、企画・制作・開発のプロセスの中では末端と言って過言ではありませんし、違うアプローチでそういう立ち位置に行った方はいるかもしれませんが、制作会社の叩き上げの一兵卒として名のあるエージェンシー(代理店)のクリエイティブディレクターになった人というのは私の知る限りあんまりいません。

なので、冒頭の、「制作会社のプログラマー出身でクリエイティブエージェンシーのクリエイティブディレクターになった人」っていうのは結構珍しいのです。
で、そういうことになったので、私は結構な気負いを持ってPARTY設立に参画しました。他の設立メンバーは広告代理店出身で、私だけが制作会社でずっとやってきた人間だったわけで、「全制作業界を背負って、エージェンシーの世界に殴り込む」くらいの気持ちがありました。

広告を含めた商業クリエイティブの世界には、全く技術のことを理解していないクリエイティブディレクターというものが存在します。それは全然良くて、理解していなければ理解している人に任せればいい。しかし悲しいことに、技術者に対してなんのリスペクトも持たず、雑に下請け扱いして、無理な開発を強いるような人が結構います。

例えば、とある広告代理店のクリエイティブディレクターが、制作チームに「この黒い建物にプロジェクションマッピングをしたい。してくれないと困る。クライアントに約束しちゃったからやっといて!よろしく!」みたいなことを言ってきた。制作会社は下請けなので無碍に断れないんですが、黒いものにプロジェクターで何か映す、というのは技術的に不可能なのです。

で、制作会社は「どうやってこの勉強不足な聞き分けのないクリエイティブディレクターを説得するか」という無駄な作業に時間を費やすわけです。こうなると、デジタルなものづくりに携わる者として、それを監督する者としてあまりにも怠慢だし、人の仕事を増やして最終的なクオリティを下げていると言わざるを得ません。
もちろんそんな人ばかりではありません。技術に理解があって、技術者へのリスペクトを持ったクリエイティブディレクターも存在しますが、そうではない、上記のような人も多く存在します。

ただ、自分がクリエイティブディレクターとしてやっていくことで私のような「職人」出身の人間がもっと理不尽無くものをつくることができるようになるパスをつくっていきたいと思っていましたし、業界のヒエラルキーに埋もれている多くの優秀な職人にチャンスをもたらしたいと考えていました。

調子に乗って大事なことを忘れる

ところが、PARTYをつくってからの私は、調子に乗ってしまいました。業界の方はご存知の通り、PARTYを設立した際は「スーパークリエイター集団」的な扱いでだいぶチヤホヤして頂きましたし、いつも制作会社でコンビニ弁当を食って喫煙所の床に横臥して仮眠をとっていたような私が、広告祭のあるカンヌで優雅にロゼをすすって南仏の夕日を眺めています、みたいな急激な変化が訪れました。給料もかなり上がった。

というわけで調子に乗っていました。制作業界を背負って殴り込んだつもりだったのに、クリエイティブディレクターとしてチヤホヤしてもらえることを当たり前に感じるようになるまでは早かったです。当時は、だいぶ大事なことをスキップしていた感じがあります。プログラムも全然書かなくなってしまいましたし、自分のホームグラウンドである開発というところから少し目線を外していたところすらありました。
流れの速い世界です。私が知っていた技術はどんどん陳腐化して、「わからないこと」がどんどん増えていきました。

一方で、勉強をさせて頂くことも多かったです。企画書のつくりかた、プレゼンのテクニック、クライアントとの関係の構築や、お金の計算などなど。デジタルにとどまらず、CMなど他の領域の仕事もたくさんやらせて頂きました。
PARTYの初期のほとんどの仕事に関わって、今までの立ち位置からとは違ういろいろなもの・ことを見ることができました。なので、決してその時期は無駄ではなかったのですが、調子に乗って大事なことを忘れていたのは否めません。

ニューヨークに移住したら全然太刀打ちできない

そんな私にとって人生でも最大に近い転機となったのが、ちょうど4年前、2013年の9月19日。ニューヨーク移住とPARTY NEW YORKの設立です。細かい経緯は他のところにも書いていたりしますので割愛しますが、クリエイティブディレクターとして濃ゆい形で日本の業界の構造・ルールの中に漬かっていることに疲れてしまっていた私は、ニューヨークに逃げたのです。
しかし逃げ場所だったニューヨークは、当たり前なんですが逃げ場所どころではなく、非常にシビアな場所でした。

当然、英語で仕事をしなければいけません。まず、私が理解しなくてはならなかったことは「この街では、自分はクリエイティブディレクターとして役に立たない」ということでした。
クリエイティブディレクターは、とにかくコミュニケーションをする必要があります。クライアントと対話し、スタッフと対話します。その対話も、様々な情報を理解して消化して、的を得たディレクション(指揮)になっている必要があるわけで、それが母国語ではなく英語で行われるということは、私のような東京で生まれて37年間他の場所に住んだことがなかった純度100%の日本人には大きなハンデです。
日常会話も微妙な状態だったので、クリエイティブディレクションなどは夢のまた夢です。

PARTY NYには、幼少時からアメリカにいて、8年間海外で仕事をしてきた川村というパートナーがいます。彼がクリエイティブディレクションをやりながら、何もない場所でお客さんに営業して仕事を見つけるという、重い仕事を一手に引き受ける横で、私はあまりにも無力でした。

ニューヨークという街は、私をある種のどん底に突き落としました。

このアウェイすぎる状況の中で、自分が何かできることはないか。それを考えたときに、私には川村や他のスタッフが考えることを実現する職人として、手を動かして何かをつくるところに戻るしか道が残されていませんでした。少なくとも、英語でスムーズに仕事を回せるようになるまでは、それをやっていくしかありませんでした。
一人や二人でできるレベルの規模のものなら自分で最後まで制作・開発をする、大きなプロジェクトや映像絡みなどの仕事ならば、とりあえず動くプロトタイプを人より高速につくる、言葉が出ないのであれば、とにかく手を動かす。
そういう方針で、何でもやっていきました。

実際、ニューヨークに渡航した時分では、がっつり手を動かさない期間が長かったのもあって、ずいぶん腕がなまっていました。ウェブサイト1つつくるにも以前とは全然つくり方が違ってしまっているので、それに対応していく必要がありましたし、東京では自分では仕事でやったことがなかった電子回路の制御コードを書いたりとか、ネイティブのスマホのアプリのプログラミングをちゃんとできるようになったのもニューヨークに来てからでした。

渡米の6日前に、中村勇吾さんに言われたこと

そんな中、アメリカに渡ってくる直前にある人に言われた言葉をいつも反芻していました。移住が2013年の9月19日。その6日前の9月13日のことです。私は日本での仕事の締め、に近いのですが、ある1つの緊張を伴うトークイベントに出演していました。
ちょうど、その時期にギンザ・グラフィック・ギャラリーでPARTYの個展をやらせて頂いていました。それに合わせての企画で、その時点4人いたクリエイティブディレクター一人一人が、対談してみたい人を呼んで話をする、なんていうことになりました。

そこで私は、恐れ多くも、この仕事をやり始めたきっかけとなった方でもある中村勇吾さんをお呼びして、トークイベントの名前を借りて、「勇吾さんにいろんな悩みを相談する」という催し物をやらせて頂いたのです。そのイベントそのものは実りある感じで終わったのですが、その後、近所の飲み屋で引き続き勇吾さんに酒を飲みながらさらにいろいろお聞きする、なんていうことになりました。
酔っ払っていたので、相手が神であるにも関わらずだいたい内容を忘れたんですが、勇吾さんがおっしゃっていたことで、1つ「あ!」って思わされたことがあったのです。

PARTYという会社は、いろんな会社のスタープレーヤーが集まってできた鳴り物入りの会社だったんですが、それを評して、勇吾さんは「PARTYは伊藤さんもヒロキくんも川村くんもみんなGLAYで言ったらTERUみたいなものだから、カンタくんはベースとかドラムの人でいいんじゃない?」ということを仰ったのです。そしてさらに「いやードラムやって欲しいなー」と。
勇吾さんも酔っ払っていたので、十中八九忘れているのではないかと思いますが、この言葉はなぜだか、いろんな意味で飲み込むことができなくて、脳のいろんなところにこびりついていました。

そして数日後にニューヨークに渡って、プロジェクトの中で取り組んだことは、バンドで言ったらベースやドラム、音楽を支えるリズムセクションのような役割でした。
この街では、言語が不完全な私は「歌を歌う」ことも、「ギターでソロを弾く」こともできませんでした。私ができるのは、愚直に、いいリズムを刻むことだけでした。

ニューヨークに潰され、ニューヨークに救われる

そして、一度は無力感に突き落とされた私を救ってくれたのもまたニューヨークという街でした。愚直に職人的なことをやっていたら、だんだん自分をアテにして仕事の相談をくれる人が出てきたのです。「今度こういうゲーム作ろうと思うんだけど、一緒にやれない?」とか「こういうサービスを考えたんだけど、どうやったらつくれるかな?」とか、カジュアルに頼りにしてくれる人が出てき始めたのです。

ニューヨークっていうのは、良くも悪くも真の実力社会です。腕があれば、ちゃんとそれを見ていてくれる人がいて、声をかけてくれる人がいるのです。ベースであっても、ドラムであっても、良い音を出していれば、ちゃんと拾ってくれる人がいる。それはニューヨークという社会の強力な美徳だと私は思います。
一生懸命やらないと淘汰される、しかし、真面目にやっていれば結構報われる。優秀な目利きであればあるほど、その人の英語のレベルなどで人を見ず、実力をきちんと見てくれるようなところがあります。
もちろんそれをアピールすることも実力のうちですが、本質が伴っていなければ見透かされてしまいます。

4年間暮らしてみて、東京と較べて、ニューヨークの一番良いところは何か、と聞かれたら、私にとっては間違いなくその点です。

日本だとちょっと違うのです。一度メディアに「天才クリエイター」なんてもてはやされてしまうと、その人を見る人たちは全員思考を停止してしまい、その人を天才扱いし続けてしまって、実際につくっているものを評価しなくなってしまう。天才がつくってるんだから良いんだよ、ってなっちゃうし、その下で苦労している職人がいたとしても、その人たちはいなかったことになってしまう。
ある種「有名になったもの勝ち」、ただしそれで有名になってもどうせその人の本質がきちんと評価されているわけではないことが多くて、本人も実はあんまり楽しくない。日本には、有名無実の天才が多すぎますし、そのステージで褒められてもあんまり嬉しくないのです。

ニューヨークでは、「天才」なんて言われて有名になんかならなくても、自分の仕事を見て、評価してくれる人が結構いる。いろんなものを「ガチ」で取捨選択する街。そこで評価してもらえるということは、実力と無関係にもてはやされて有名になることよりも、よほど楽しいことなんだな、ということを知ることができました。

日本で自分が働いていた業界では、ボーカルかギターじゃなければ注目してもらえない。しかしニューヨークでは、ベースでもドラムでも、楽しく仕事をし、報われることができるのです。

PARTY NYの現在と今後

そんなニューヨークに移住して4年が経ちました。PARTY NYは、実は4年前に想像した以上の成功を収めています。4年前、PARTY NYの存在は誰も知りませんでしたが、手がけたキャンペーンのいくつかが大成功し、多くの視聴者を集めるミュージックビデオをつくり、自社で開発したプロダクトがアメリカ中で話題になったりしているうちに、ニューヨークの商業クリエイティブの業界でも、メディアアートのコミュニティでも、スタートアップ界隈でも、デジタルのものづくりに関わっている人たちの中で、知らない人はいないとも言えるほどの存在となることができました。

自分で言うのもあれですが、ニューヨークに「進出」した日本発祥のチームで、この業界の中で私たちほど本当の意味でニューヨークに食い込むことができたチームはかつていなかったのではないかと思います。
ここ2年くらい、GoogleがTangoとかGoogle Homeとか、新しい技術をリリースするたびに、アメリカの主だった制作チームをオフィスに招待してハッカソンを開くのですが、R/GAとかMediamonksとか、並みいる世界の強豪チームに混じって、私たちPARTY NYだけが日本由来のチームとして毎回呼ばれていて、しかも結構目立っていたりします。自己肯定感が上がります。

そういう状況をつくり出すことができた今、では私たちはこの先何をやっていくのかということが問題になってきます。
会社を大きくしていくと管理をするのが大変になってしまうし、そのぶん意に沿わない仕事もやっていかなくてはならなくなります。
お金にならなくても、自分たちが面白いと思えるものはつくっていきたいですし、そのためにもっと効率よく成長するというのはどういうことなんだろう、ということを考えてきました。

1つの答えは、ニューヨークで一定の存在感をつくった今、日本人である自分たちの母国や東アジアとのコネクションを有効活用しようということです。
今まで私たちは、ニューヨークで、ニューヨークの人たちと何かをつくる、ということにこだわってきました。それは、この街でのものづくりを手の内に入れて、この街で一目をおかれるようになるためでした。
それはもちろん間違っていなくて、それにより私たちは多くの人たちと出会い、一緒に仕事をすることができました。
そして結果として、母国日本や、たとえば隣国の台湾なんかには、ニューヨークの人材と全く遜色のない優秀な制作・開発者がたくさんいるということを再認識することにもなりました。

特に、私の目線で見て、自分の職能の中心である「テクニカルディレクター」というところでいうと、日本は人材の宝庫です。もっともっと活躍してほしい人たちが母国・日本にはたくさんいるのです。
しかしテクニカルディレクターはおおむね、ベースであり、ドラムであり、裏方的な存在です。前述のような日本の事情(ノリ)だと、なかなか彼らの溜飲が下がるような社会にはなっていません。
そういう人たちともっと一緒に仕事をしたい。ひいてはそういった人たちがちゃんと職人としてリスペクトされる、私がニューヨークで体験した充実した裏方生活とその喜びを母国に持ち帰りたい、と思うようになりました。

新しいチームと文化をつくる

そんな思いから、私・清水幹太は、東京に新しい会社を設立し、新しい仕事に取り組むことにしました。

それは、世界で初めての「テクニカルディレクター・コレクティブ」。テクニカルディレクターだけが集まった職能集団です。所属するのは、原則としてテクニカルディレクターだけ。新しいサービスの設計・構築からプロダクトの開発、広告のようなクライアントワークに至るまで、世の中のいろいろなプロジェクトにテクニカルディレクターを派遣して、プロジェクトの様々な段階で職人として「いい仕事」をしてもらう。
そして、会社に属しているテクニカルディレクターだけではなく、他の制作・開発会社に所属しているテクニカルディレクターのレップ・支援も行い、そういった人たちが自分の実力で仕事を取れる状態をつくる。
その上で、東京だけではなく、清水がベースとするニューヨークや、台湾・中国などのテクニカルディレクターも巻き込んで、形だけではなく、ちゃんと日本だけにとどまらない、世界での活動にしていく。

そんな活動を通して、テクニカルディレクターという「世の中のものづくりをもっと良くする」存在を世界的にもっと大きなものにしていきたい、と考えています。
清水自身は、ニューヨークの仕事は継続しつつ、東京でのテクニカルディレクターとしての活動を再開します。 

そしてその会社の名前を「BASSDRUM」にすることにしました。「ベースドラム」と読みます。
言わずもがな、デジタル系ものづくりの根幹になる、リズムセクションにあたる部分を堂々と担当していく、という意思表示です。
そして、ベースやドラムは、地味かもしれませんが、楽器です。楽器というものは、いくら良い楽器であっても演奏する人が下手くそであれば、良い音楽を奏でるものではありません。良い楽器は、良い演奏者に使われることで、やっと良い音を出すことができます。
だから、BASSDRUMは、今までに一緒に仕事をしたことがないクリエイティブディレクターやサービス・プロダクトのスタートアップ、企業の新事業の担当者の方に至るまで、様々な「演奏者」と一緒にさまざまな「音」を出していきたいと考えています。

もう1つの重要なファクターは、「投資」です。BASSDRUMは投資会社でもあります。前述の通り、テクニカルディレクターは、様々なプロジェクトをスムーズに前に進めるために様々な局面で活躍をします。
新しいサービスやプロダクトをつくりたいけど、開発者はいないし、お金もない。しかし、まずはものをつくらなければ投資も取れない。そんな場合に、BASSDRUMはお金ではなく、テクニカルディレクションを投資します。
そのときに存在するリソースの中でできることを定義し、次のステップに進むために必要なプロトタイプの要件を定義して、必要であればその開発までを担当していく。その労働力を投資するかわりに、サービスのオーナーシップや利益をシェアさせて頂く。
そういう意味での「実現力」の投資会社。これがBASSDRUMのもう1つの柱です。

今後の進め方と、協力体制

BASSDRUMは、清水が言い出しっぺとなる会社で、さしあたり清水を中心に活動を始めていきますが、清水個人の活動ではありません。既に、一緒にやっていく同志を集めつつありますし、同じ志を持った仲間たちが点ではなく「面」になって動かしていくものになっていけば良いと考えています。
まずは清水を中心とした最小限のメンバーで業務を開始しますが、来年にかけてさらに何人かが合流し、春くらいには本格的なスタートを切ることができればと考えています。
そこに向けた準備期間で、テストフライト的にいくつかの仕事を東京・NYでやらせて頂きながら、さらに資金と人を集めていきたいと考えています。

とはいえ、テクニカルディレクション専門のチームというだけでも新しい上に、前述のテクニカルディレクターのレップを行う環境づくりや、投資事業のビジネスの構築まで、やろうとしていることは新しいことばかりです。それをビジネスとしてきちんと機能する形にするためには、技術屋さんだけでは足りません。
私や、ニューヨークでパートナーとしてやってきた川村は、そのへんの新しいビジネスを課金体系なども含めて定義していくというところは得意ではないので、そういった部分は、創業当時から、同じ領域で新しいチームの形・仕事の形を世の中に提案続けてきたdot by dot(現Whatever)の皆さんと業務提携することで、がっちりと進めていきます。dot by dot(現Whatever)の皆さんと、案件のプロデュース等の現場での提携に始まり、この新しい活動の具体的なビジネスとしての整備を一緒にやっていくことができればと思います。

加えて、東京においてはBASSDRUMの仕事に専念するため、清水はPARTY TOKYO(というか、日本におけるPARTY)のCTO(最高技術責任者)及び取締役を退任させて頂きました(2017年12月)。
とはいえ、BASSDRUMとして、今後とも日本を代表する独立系クリエイティブ・エージェンシーであるPARTY TOKYOのお仕事は引き続きご一緒できれば幸いです。PARTY TOKYOというキャラクターの強い存在から一線を画すことで、BASSDRUMがもっと様々な人たちと一緒にお仕事をさせて頂くための、発展的独立です。
同じブランドを掲げてきた仲間として、今後も切磋琢磨していくことができればと思います。

長くなりましたが、私は優秀なテクニカルディレクターが世の中に増えれば増えるほど、興味深いものが生まれ、ものづくりは円滑になり、良い世界をつくることができると信じています。
BASSDRUMは、あらゆるプロジェクトの「実現力」をブーストする、最強のリズムセクションとして皆様のお役に立てればと考えています。是非、一緒にテストフライトさせてください。お声がけをお待ちしております。

何卒よろしくお願い申し上げます。

BASSDRUM 清水幹太


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BASSDRUM / Tech Director - http://bassdrum.org - http://qanta.jp 日記と過去記事が掲載されるはずです。
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